ユニカイエ

プロデュース魂!の巻

ひるますHOTLINE第7回。今回もネタはない、というより、いろんな人とあったりネタになるようなことを仕入れたりはしてるのだが、すべて新企画に関わる話しなので、ここでぶっちゃけて話すわけにはいかない。といってもケチで言ってるのではない。ARTDEPOのようにユニ独自の企画(そのうえ企画会議の内容もオープンにしている)ならいいのだが、それ以外の企画ではいろいろな他社が関わっているので、メーワクがかかってもならんという配慮から言っているのです…。
 しかし考えてみりゃ、そういう企画に関わるコトというのは、すべて「プロデュース」というジャンルの仕事だということになる。ユニがメインにやっている仕事は「デザイン」の仕事だが、ここらへんはカタチになって見せられるので、説明もしやすいが、プロデュースがらみの仕事は、それ自体「縁の下の力持ち」的な役割であるだけに、なにやってるのか分からないといわれる部分でもある。そこで、そのへんの話、ユニにとってプロデュースって何ってことを雑談的にしてみようかと思います。興味のあるかたはご参考までにお読みくだされ。

image
「呪怨」Vシネマ版に登場する不動産屋
本文と直接関係はないのだが、この不動産屋なんと、
KAOさんの実家の御近所!(写真:KAO)

【呪怨を呪え!】
 のっけから本題からはずれるようだが、このところ「呪怨」についてあれこれ書いてた。映画版(ただし「1」のみ)が気に入ったのだが、その後見たビデオ版に納得がいかず、あれこれ書いてウサをはらそうということだったのだ。しかし俺の場合、ただ気に入らないということは書かない。批判をする場合は「これがこ〜いう作品ならうまく行ったハズ」という形での「リメイク対案」を提示するようにしている。そういうお話を集めたのが知られざる(笑) 「でぃーぶ・ひるます」 というサイトなので、興味のある方はご覧下さい。それにしても、そういうことを考え方自体がすでにプロデュース魂とも言える。
 つまり自分でやっててあまり意識しなかったのだが、リメイク案というのは、ちまたによくあるような「俺が監督ならこう撮る!」というものではない。そうではなくて、逆にこの監督に「こういう話を撮り直させたい」というものなのだ。単純にいえば「脚本レベル」での修正を求めるものなのだ。もちろんだからといって、自分で脚本を書き直すのではない。それは脚本(家)に対する方向性の「指示」であり、ようするにそれがプロデュースということの一つの側面だろう。「テイスト」はそのままに、より作品としての「意味」というか「内容」をシッカリしたものにしたい、というのがオイラの希望だ。
 と、あらためて意識してみると気づくことがある。それは「俺が監督なら〜」という言葉のウラハラにある「監督主義」的な発想だ。
 ひょっとするとそれは、日本に特有な現象なのかもしれない。映画は監督のもの…という思い込みがあるようだ。しかし、アカデミー賞があれだけ話題になりつつ誰もそれをハッキリ言わないのが不思議なのだが、アカデミー作品賞はプロデューサーに与えられるものなのだ。だからあえて「監督賞」というのが別にある。作品賞=単なる作品のランキングかと思われているのだろうが、そうではない。それは「作品はプロデューサーのものである」ということを示しているのだ(アメリカにおいては、だが)。

image
黒沢清監督『回路』

【日本映画を救え!】
 「呪怨」といえば、映画版の「2」はあまりにひどい内容で、語ることさえやめてしまったのだが(リメイクを書こうというのは、それだけの「引き付ける」ものがまだあるからなのだ)、この作品は清水崇さんの監督・脚本作品。この監督=脚本というのが、まさに「映画は監督のもの」主義の圏内にあることを示している。映画の「1」を振り返ると、これも監督=脚本なのだが、「監修」というワケのわからないものがついてる。映画で「監修」なんて聞いたことがない。まるでPTAみたいだが、その「監修」をしているのが、高橋洋と黒沢清といういわゆるJホラーの巨匠(脚本家と監督とそれぞれ立場は違うが)。いまにして思えば、このワケわからない監修というシステムが効を奏して映画版「1」が、まともな映画としての体裁をとれたわけだな…ということになる。
ところが奇妙なことにというか、きわめて当たり前なことにというか、そこで「監修」している黒沢清という監督、この人もまた自作については「監督=脚本」の人で、これが実につまらない。私が見たのは「回路」と「降霊」という作品なのだが、いずれもストーリー(脚本)が破綻。「降霊」は役所コウジと吹雪ジュンといういい役者に助けられてまだ見ていられるが、「回路」などは演技にもなってない。特典映像のメイキングシーンを見ていると、この黒沢さん、どう見ても頭でっかちなインテリ風情で、監督=演出には向かないようだ。「呪怨」の成功が「監修」の力にあったとすれば、プロデュース業に専念したほうがいいと思うのだが、それは余計なことか。
ようするに監督って、現場監督。現場で実際のモノを作る人だ。俺たちの仕事でいえば「デザイナー」に近い。作品のテイストやデティールはそのデザイナーの色に染まる。しかし、デザインがいくらよくても、全体としてのコンセプトが定まってないとかズレているということはおうおうにしてある。この分野でそういう仕事をするのがアートディレクターだが、これが映画ではプロデューサーとということになるか。完全に類比的な関係になるわけではないが、まあ近いとは言えるだろう。というか、広告やエディトリアルでは完全に確立していると思われるこのアートディレクター→デザイナーというシステムが、映画のプロデューサー→監督という関係においては機能していない、ということがそもそも問題なのではないだろうか。少なくとも日本映画における「監督=脚本」映画においては明らかにそうだろう。ほとんど丸投げではないだろうか。この現状を救うには、企業のお偉いさんなどではない、本当の意味で賢いプロデューサーに登場してもらうしかない(身びいきのようだが、ユニユニで紹介した石井さんの映画などに期待しましょう)。

image
飯田譲治監督『アナザヘヴン』


 【プロデュース魂が日本を救う】
 とまで、もはや言ってしまおう。
今回、Jホラーについていろいろ調べていたら、あるサイトで飯田譲治監督の「アナザヘブン」を評して「この人に映画を作らせるのはもはや犯罪」と書いていた人がいた。完全に同意する。この監督の「らせん」は例の「リング」の続編。原作は鈴木光司だが脚本は飯田氏。「アナザ…」にいたっては原作まで飯田氏だ。もちろん「監督=脚本」だからダメというのではない。問題は「監督=脚本」がダメ作品を生み出してしまう、という構造なのだ。
で、飯田氏。あきらかに「らせん」は下らない作品で、「アナザ…」は犯罪的なつまらない作品なのだが、それでも彼はしっかりとこの映画という業界に生き続け、「アナザ2」なる作品も手掛けているようだ(あまりに下らないのでチェックしてないが、文庫本が出ていた)。なぜそのような生き残りが可能なのか?、それは映画業界という(あるいは角川という会社の?)世間の中でのたちまわりに長けていたからだろうと類推するしかない、というのはただのイヤミだが、けっきょくは観客、製作会社、配給会社、マスコミを含めて、総体としてはこのような作品と監督の存続を「許容している」からだ。
いったいそれはなんなのだろうか? 実はそこに表面的には「監督主義」として現れるような、ものづくりに対する決定的な勘違いがあるのではないか。ようするに製作者サイドにおいては「怖けりゃいいからなんか作ってよ」と丸投げする態度であり、観客サイドにおいては、まったく初歩的なレベルでみて「お話」として破綻していても、「そこになにか汲み取るべき意味とか、いい点があるのではないか」というふうに許容してしまう態度だ。黒沢や小津を神格化する一方で、現役の作家にはひたすら甘い。製作者も観客もようするに「映画」というものを信じていない。ものすごいニヒリスティックな状況なのだ。
やはりそれは日本的、という感じがする。自立した表現が成り立っていないのに、そこでなんとなくみんな「分かりあっている」かのような状況。曖昧な表現にも何か意味があるのではないかと勘ぐり、しかし、それは曖昧だからこそいいのだなどと観客の側で勝手に解釈してそれで、なにもないまま終わってしまい、作家は作家でその甘い状況に居座り、いつまでも「丸投げ」作品を作り続ける。くだらなすぎる。
こんな状況を変えるのが、俺の考えるプロデュースだ。この作品は、あるいはイベントでもいいが、それによってこういうコトを言いたいんだ!とはっきり言うのがプロデュースであり、その実現のために監督やらデザイナーやらのモロモロの人々を動かし、そのための金を集めるのがその仕事でしょう。そこがきちんとまっとうに自覚されれば、それだけでこの状況は変わると思うのだ。

今回は映画の話だったけど、問題は映画だけではなく、出版やアートの世界の話でもある。そんな豪腕プロデュース集団をユニは実はめざしている。ご期待願いたい。


2004年03月05日 07:55 by hirumas | トラックバック (0)

この記事のトラックバックURL:http://www.unicahier.sakura.ne.jp/uni/mt-tb.cgi/459


Copyright (C) 2003-2007 unicahier. All Rights Reserved.