ユニカイエロゴ

ひるますはどんな手帳を使ってきたのか?

さて、前回といってもだいぶ前の話だが、ひるますのMac遍歴について途中まで書いた。が、途中まで書いたところで、Mac歴というよりも、手帳の歴史の中での一つとしてのMacでありiPhoneでありというような側面が大きいということが分かってしまったので、遅ればせながら、手帳について書いとくことにしよう。ここで言う「手帳」というのは、主にスケジュールやTODOを管理するツールのことで、打合せのメモなど(ノート的なジャンル)については、別途「ひるますのメモ」に書いてますので、こちらもご覧下さい。


私がそもそも手帳オタクであるということは、最近のユニのブログの「モレスキン活用法」にちらっと書いてるが、そもそもの話をするとなると、ものすごく長く深い。


まあ私の世代であれば、ほとんどの人が挙げるであろう「スパイ手帳」。これを私も溺愛していた。


スパイ手帳は今やググってみれば山のように写真も出てくるのでぜひご覧いただきたい。中でも忘れられないのは水に溶ける紙。当時はトイレットペーパーすらなかったので、水に溶けるのはスゴイと思ってました。まあこのへんは手帳前史ですね。


本格的に「手帳」という形で意識し始めたのは、高校から大学にかけて使っていた、Campusノートの一番小さいサイズのもの(B7)。それに、ぴっしり小さい字で日記とか単なる記録を書き込んでいたのだった。いま、Campusノートの歴史というのをコクヨのホームページで調べると、基本的に私が使っていたのは75年発売の初期型ということになるからスゴイものである。


http://www.kokuyo-st.co.jp/stationery/campus/history/index.html


で、この時代こういうもので用が足りていたのは、ようするに「スケジュール」というものがあまり必要でなかったのである。非常に不活発というか観念的な学生生活であったので…。スケジュールが必要となると、カレンダー式の手帳を使い始めるようになるが、やはり画期的なのは「システム手帳」の登場だろう。これがいつかとネットで調べれば、山根一眞がの「スーパー手帳の仕事術」が1986年10月刊とあり、私はこれを購入するとほぼ同時に、この本で紹介されているFilofaxは高かったので、能率協会製の似た商品「BINDEX」を購入したのだった。当然ながらリフィルが日本語だし、使い勝手はこちらの方がいいのではなかったろうか。


能率協会ホームページによると、BINDEXは、1987年に誕生、ということである。と、いうことは、私は1987年の1月または4月からシステム手帳というものを使っているわけだ。その後、バイブルサイズシステム手帳は、今のiPhoneくらい?のブームになって、誰でもバイブルという時代で乱立したりしたが、BINDEXは日本の中では老舗ということもあって、生き残っていますね。やはりリフィル、特にカレンダーの使い勝手がよいのでしょう。能率手帳でのノウハウが詰まっているから?なのか。私の感覚としては、やはり「紙の色」(ベージュ)が使っていて心地よいというのにつきますけど。


http://www.jmam.co.jp/productservice/system/system01/1191789_2370.html


このBINDEX、私としては活用したというよりも私の生活そのもの、というほどに使っていて、マンガのネタやら「思考」のネタ、そこはかとない書き物、「夢」の日記、などを無地のリフィルに書き込み、それがバイブル手帳にはおさまらず、10cmくらいあるバインダー数冊にもなってしまっていた。こうなると手帳自体が目的化している本末転倒なのだが、これがそのまんま、Macの中のテキストエディターに移動してしまっていたというのが、前回のMacの歴史の話でもあったのだった。


さて、その前回書いたMacの導入(カラクラ)が1993年であるから、それ以降は徐々にバイブル手帳の使用は少なくなっていくわけである。とは言っても、スケジュールはバイブル手帳が基本となる。この当時、私は「講習会の企画」と「技術専門書の編集」というのをメインの仕事にしていたので、セミナーの開催だとか、企画のための打合せなど、かなりスケジュールが重要な仕事をしていた。で、BINDEXのカレンダーリフィルは何を使っていたかというと、これは一週間見開きタイプ。一週間の予定と一日の中の時間を把握するのに、最小限のサイズかと思いました。


そんなわけでBINDEXを細々と使い続けて…、激変が起きるのは、1997年。「超」整理手帳の登場。


http://www.noguchi.co.jp/datebook2006/index_about_1.php


これはたしか「超」整理法の本(2冊目?だったか)の中で野口氏が手作りの「超」整理手帳の作り方を書いていて、私はその「手作り」を実践していたので、実際に「超」整理手帳が発売されるより前にユーザーとなっていたのだ。そして商品化されたものも待ちに待って購入…。しかしこれ、あまり長続きはしませんでしたね。


この手帳のコンセプトは要するにA4ってことだと思うのだが(A4の紙4つ折りのサイズ)、結局のところ、手帳はスケジュールしか使わない…ということにしてみれば、あまりA4サイズの紙にこだわるということもなく、カレンダーリフィルを購入するのを戸惑ってしまったというところで終わった感じがする。


ちょうどその頃、仕事も変わるということになり、手帳も変えようということになりますが、この頃は手帳自体にそれほど重点がなくなってるのと、仕事が内勤が多くてスケジューリングも単純になってしまってたので、普通の能率手帳(システム手帳ではないやつ)とか、名もないダイアリーを使ってました。


2001年から美術系の出版社で働くことになりましたが、ここもまた企画編集系なので、またスケジュールが重要になってきましたが、古いバイブル手帳を使うのも気がすすまなかったので、当時なぜか流行っていた(今もまだかなりあるけど)ミニ6穴の安いのを買ってしのいだのだった。透明なビニールカバーのやつで、1000円しないやつですね。かなり貧困な状況で仕事していたので、貧乏をアピールするという意味でもあえてそういう選択をしていたという感じですね。


そしていよいよ2003年からユニカイエ始動、ということになるのですが、この時点で、なぜかBINDEXが復活!!


これは自分の事務所を開始ということで、ミニ6穴の小さい画面ではスケジュール管理がしにくいということから、しかし新しいシステム手帳を買う資金もないということで、復活となった次第。このBINDEX、結局、2006年半ばまで現役で使用。87年から使ってる手帳なのだから、なんとまる20年。凄いとしか言いようがないですね〜。もちろん今でも使おうと思えば使えるのだから、また凄いですよ。途中、しばらく使ってなかったとはいえ、かなりハードな使い方をしてるわけで、この20年という風雪に耐えているBINDEXというのは、すばらしい製品だったのだと、今にして思いますね。


mobileme

    年季の入ったBINDEX!


さて、そのBINDEXが退役した理由と言うのはiPhone…ではなく(iPhone3G登場は2008年なのでまだ2年ある)、2005年に導入したiBookG4。2006年というとちょうど事務所を東池袋から西池袋に移転した時で、引越のため一時ネットが不通になり、それまであまり使われる機会が少なかったiBookG4が俄然活躍するということになったわけです。メールを送受信するために、わざわざ駅近くのホットスポットまで行き、事務所にもどって作業するという今では考えられない仕事の仕方。しかし、そんなことがきっかけで、iBookを常に持ち歩くという態勢になり、スケジュールもMacのiCalがメインになっていったわけです。iCal自体はiBook導入の2005年と同時に記入しはじめてますが、この2006年で完全に移行。ドットマック(.Mac、現在のMobileMe)サービスに入ってましたので、外ではiBookでスケジュールを確認、事務所では同期したMac(G5)で確認、という現在のiPhoneでのスケジュール体制を先取りしてました。逆にいえば、2008年のiPhone3G導入では、iBookがiPhoneに変わった「だけ」ということになり(便利さは全然違うけど)、やってることはなんのヘンテツもない同じこと、というわけです。


  そのiBookG4もついに限界が訪れ…


で、現在、ユニのブログ「モレスキン活用法」に書いたように、iPhone4に合わせてモレスキンストーリーボードを使用している状況。iPhone4用のモレスキンケースが出れば、そちらに移行したいと思うこのごろです。


2010年12月05日 02:55 by unicahier | ページのTOPへ

ひるますはどんな Macを使ってきたのか? 1

このところのユニの話題というとMacというよりはiPhoneなのだが、iPhoneってなにかといえば、私にとっては「Macの一部」にして「究極のMac」なのだ。どういうことかというと、私のイメージするMacというのは二つあって、一つはもちろんDTPなりWEB制作のためのデザインツールであるが、もう一つは手帳としてのMacであり、この一方が進化したものがiPhoneだということになる。というわけで、ここでiPhoneへ至る道、としてのMacを振り返ってみようという次第なのだ。


さて、私のMac歴は長い。あれは忘れもしない1993年の春、カラークラシックの発売とほぼ同時に購入したのが、そもそもの始まりであった。このカラークラシック、いわゆるカラクラは、性能的には最低レベルで、いろいろと悪評もたかく、買い物としては失敗なのだが、そんなことはまったくお構いなしに、この時、この時代にMacと出会い使いこなしていたという経験は何事にも変えがたい価値があったと思える。


なぜカラクラだったのかというと、ようするにこれが初めて普通の人が買える(カラーの)Macだったということなのだ。カラクラ発売時には同時にLCシリーズというモニター別のエントリーモデルも発売されたので、こちらでもよかったのであるがカラクラにしたのは、微妙に安かったという懐事情による。しかしそれでも20数万円はしたのでスゴイもんである。いまならiMacのかなりいいのが買えてしまう。しかもこれ、知ってる人は知ってるだろうが、メモリがたった4MBで、そのままではOSしか動かず、メモリ増設は必須にもかかわらず、なんと10MBまでしか認識しないというシロモノなのであった。これをどうしたんだか忘れたが、結局12MBに増設して2MBはムダにしていたのを憶えている。当時のメモリは1MBあたり一万円ちかくしたので、これもくやしいことであった。


さて、当時は記憶が定かではないが、まだフォトショが2.0、イラレが3.0くらいではなかっただろうか。それ以前にデータで入稿するという環境も発想もなかったので、これでデザインをするということは考えられないことなのであった。ところで93年というと、すでに私はコミックモーニングにマンガを発表してマンガ家としての足がかりを得ていたのであるが、パソコンでマンガを描くなどということは、さらに考えられもしないことであった(今ではコミックスタジオがスタンダードになりつつあるのだが…)。これよりかなり時間がたって、デジタルのスクリーントーン(パワートーン、いまはコミスタに組込まれている)が出て、かなり画期的だったが(スクリーントーンがバカ高かったので)、それでもこれで入稿するという状況ではなかった。その後、私の『オムレット』(99年刊)は、Macで作成しているのだが、これは手描き原稿をスキャンしてフォトショップで加工、パワートーンでスクリーントーンを貼り、これをすべてクオークエクスプレス3.3に貼り込み、クオーク上でネームを配置したものなのだ。しかし、なんとこれをいったん、フィルムで出力し、それを印刷所に持ち込むというアナログ的な手間があったというのがその当時というものを象徴している。つまりCTPってまだ普及してなかったのだ。しかし、ちょっと先に進みすぎたので時間をもどす。


カラクラ時代は、そんなわけで、せっかくMacでありながら、グラフィックなクリエイティヴとはあまり関係がなく、しかし、そもそもカラクラではそんなクリエイティヴな作業は無理であるからして、きわめて順当な在り方として、私のMac生活はあったのであった。で、グラフィックなクリエイティヴでなければ、なにに使ったかというと、やはり原稿書きなのだ。というのも私の中ではマンガを書くという事よりも、哲学というか批評といったものを「書く」ということが先にありきであったからだ。当時はネットもブログもなかったので、私はワープロで打った原稿を切り貼りしてコピーした「新聞」のようなものを作っていた。これが「月刊ひるます」という、私のペンネームのもとになった個人紙(フリーペーパー)なのだが、この一部は私の「臨場哲学」サイトに再録しているので、ご覧いただきたい。で、これをワープロで作っていたという、その「ワープロ」って何よ?というと、これがズバリ「ワープロ」という機械だったわけで、話はそこに遡っていかなくてはならない。


私のワープロ歴の最初はカシオの最初期のポータブル機(タイプライターのような形のもの)で、なんと液晶画面の文字表示が「10文字」しかなかった。表示が10文字なので、ようするに書いている文章の全体などまったく見えず、現時点で変換する前の入力した文字が見えているだけなのだった。当然、連文節変換などできなかったので、直前に入力した文字が見えてれば実際には使う上で問題はなかったのだが…、事実、この10文字表示のワープロでかなりの分量の文章を書いていたが、その後に買い替えた上位機種のワープロにしてから作成した文章量はそれに比べるとかなり減ってしまったのだった。買い替えた機種というのは、エプソンのワードバンクとかいうシリーズで、別売でハンディスキャナが使えるというのに惹かれて購入したのだった。ハンディスキャナで画像をとりこめば、コピーして切り貼りせずにフリーペーパーが作れるではないか?と思って購入に走ったのだが、もちろんスキャンしたところでDTP的な機能はないし、そもそもハンディスキャナの性能がダメで、まともな形にスキャンすることができないという状況で、これは大失敗に終わった。液晶表示も格段に進化して、40文字×何行かの表示になり、原稿用紙に書くくらいの文章の流れを目で確認できる状態になったのだが、これで逆に書くことが少なくなってしまったのは、あの「10文字」というのが極端な制限からくる驚異的な集中力とでもいうようなものを引き出していたのではないか、という気がする。たしか荒俣先生が、かつて手書きで原稿を書いていた人たちは、たとえば原稿用紙何枚というと、全体の構成を把握しつつ、その何枚というところでピッタリ収まるように書く事ができた、という能力を「一種の超能力」という風に表現していたが、そういう能力に近いものだろうと思う。ちなみに原稿用紙ほど文字数が決まってているわけではないが、私は手帳1ページにその日の出来事をピッタリ収めて書く、という「超能力」を持っていた。


このエプソンのワープロが出た頃がいわゆる「ワープロ」の全盛期で、そろそろパソコンが出回り始めたころでもある。パソコンといってもほとんどNECのPC98のことで、書店のパソコン・ワープロコーナーでは「一太郎」関係の本がかなり多く見かけられた。このあたりからそろそろワープロの限界というのを感じはじめてくるわけだが、まだパソコンというのは高価でヲタクなゲーマーの買うものというイメージであった。私が当時つとめていた会社でもエプソン製の98互換機というのをようやく一台導入したという時代だったが、実際の仕事では企画書、依頼書などの「文系」な書類の作成がメインであったため、ワープロの方が迅速・確実に仕事をこなせるという意味でメインで使われていたのだった(というか、その98互換機が何に使われていたか記憶にない私であった)。当時会社で使っていたのはOASYSシリーズであったが、その使いやすさに私はかなり満足していた。簡単なOSのようなものがあって、作成した文書の管理がこれまでのワープロにくらべれば格段にわかりやすいというのも、お気に入りのポイントで、あやうく個人的に購入してしまうところであった。ここで購入していたら、おそらくMacとの出会いが遅れていたかと思うとおそろしい。


しかし、私はそれでもそこから普通のパソコン使いに行くことは決してなく、必然的にMacと出会っていただろう、ということを確信しているが、それは当時、私がCanon NAVIというパソコンというかワープロと電話・FAXの合体したようなマシンに憧れていたということが証拠になる。このCanon NAVI、あまりの高額のために手が出ずにいるうちに、独自OS仕様のため(というかほとんどワープロ機という認識だった)時代遅れになっていったと思う。しかしこれ、今やネットにもほとんど情報はないのだがこのページなど見ると、タッチパネルでの操作や録音機能、カレンダー機能など、ほとんどiPhoneのコンセプトそのものではないか。というかこの時点でのiPhoneがCanon NAVIなのであり、こうしていまiPhoneユーザーとなっている私としてはおそろしい巡り合わせということを思わずにはいられない…。


さて、話は超脱線したが、ついに購入したカラクラで、まずはワープロとしての使用ということになる。はじめは文章がかければいいということで、シンプルテキストで書いていたが、いくらなんでもワープロソフトくらいないとプリントも出来ない(エディタではいわゆるベタ組しかプリントできない)ということになり、とりあえず安いワープロソフトを購入したのであった。これがソフト購入の第一号。このワープロソフト、その名も忘れもしない「フラッシュライター」。当時はFlashなんて存在もしないから、当然のことだがFlashとはなんの関係もない。パッケージもちゃんとしたものではなく、ボール紙でくるんだようなシロモノだったが、使い勝手はいかにも(当時の)Mac風で、直感的に使えて快適だった覚えがある。超格安ながら縦書きも可能なのであった。
Appleウィキというサイトに情報があり、そこにも「貧乏マックユーザーのため」のソフトと書いてあります(笑)。


これでワープロとしての使い方は完璧…。と思いきや、カラクラに合わせて購入したプリンターはモノクロインクジェットの「スタイルライター2」であるが、これがひどかった。いや、スタイルライター自体は評判がいいのだが、これまでのワープロ専用機で感熱紙やインクリボンにプリントしてきたものから見て、キャノンのインクジェット(バブルジェット)であるこのスタイルライターの印字品質というのは耐えられないレベルなのであった。バブルジェットという名前から連想されるように、インクが滲んで事務的な文書としてもそのままでは使えないという感じ。これではワープロ時代からの完全な「退化」である。それからまたかなり時間がたって、アルプス電気からパソコン用のインクリボンプリンタが発売されると、速攻で購入した私であった。インクリボンとはワープロに戻るみたいだが、これは退化の方向に進化の道を見いだすみたいなもので、私はこのプリンタを大絶賛だった。それくらい当初はインクジェットの品質が悪かったということで、アルプス電気としてもそういう認識の上でこれを開発したということだろう。このインクリボンはランニングコストがかなり高くつくので(使い込んでいくとインクリボンが絡んで切れて使えなくなるという事態も頻発…)一般人にはすすめられないのだが、墨文字の原稿がレーザープリンタなみのシャープなエッジでブリントできる(トゥルータイプとの組合せでキレイ)、ということだけでも「印刷用の版下として使える」という意味で、その価格に見合うものがあった。カラープリントについては、これも使い込んでいくとインクリボンの幅に縞模様が出てきて使い物にならない、ということになるのだが、とりあえずインクジェットよりはキレイという感じではあった。しかしこの後、急速にインクジェットが進化して、とくに写真用紙との組合せで写真なみの画質になったところで、このアルプスの製品は終わった。レーザープリンタも600dpiレベルならかなり安くなり、文字のみならレーザーの方がランニングコストでも安くなったといのも影響しているだろう。金銀メタリックリボンや白インクリボンなどもあったので、ほかのプリンタでは出来ない要素というのはあったのだが、あまりにニッチだということだろうか。


しかし、ともかく、当初はスタイルライターというしょぼいインクジェットしかなかったということもあり、基本的にブリンターで出力したものを、以前のように「版下」にして、個人紙をつくる、ということはなくなってしまった。これもワープロ時代からの退化だが、私は当時「漫画家」志望者というか予備軍ではあったので、ワープロで作ったものを最終成果物とするということは、本来のすべきことではなく、文章を書くということは、あくまで「マンガを描くための」準備作業にすぎない、ということからすれば、極めて順当なことなのではあった。


というわけで、その流れに沿うようにして、必然的にワープロというのは使わなくなり、書き物はエディターで、ということになるが、フリーのエディタで「Edit7」とか「YooEdit」からはじまって、「Jedit」に落ち着く、というのが当時のMacでのエディタ使いの人々の普通のルートであった。ようするに最終成果物でないのであれば、ひたすらに文章の内容そのものに立ち向かっていくしかないわけで、そういう場面では、縦書きはもちろん、見出しの大きさや、ルビや下線、右寄せ左寄せなんてことのすべてが意味がなく、ワープロ(ソフト)というものの存在がまったく意味がなく感じられてくるのだ。とくに「Edit7」や「Jedit」に搭載されていた2段カラムの機能は、長文を書く時に文章の前段と後段を同時に見比べたり、場合によってはカットアンドペーストで移動したりするのに非常に便利で、これなしでは文章は書けない! というくらいに重宝していた(ワープロソフトでそれをやろうとすると、前へいったり後へいったりするだけで、そうとうなストレスがかかる)。


まあそんなふうにコンを詰めた文章でも、別にどこかに発表するわけでもなく、準備、というひたすらに内向きな行為なのであるが、世が世なら(インターネットがあれば)、ブログを書いていたということになるわけだ。しかし、当時はインターネットすらまだ存在しない時代…なのだ。ちなみに当時はエディタなどのフリーソフトといったら、雑誌の付録もあったが、基本的には「パソコン通信」で入手したものだった。そもそもJeditはパソコン通信ソフトのJtarmのおまけとしてスタートしたものだ。ちなみに現在では原稿書きには「mi」か「MacJournal」を使っているので、ほとんどJeditは使わなくなってしまったが、なにかと文書ファイルを開くと自動的に起動して今も身近に存在するソフトではある。それはさておき、私が最初のホームページである「ひるますホームページ」を立ち上げたのが、1996年1月15日。まさに、13年まえのことなのであるが、それにしてもこの最初のホームページを「カラクラ」で作ったのだからすごいもんである。


(つづく)


2009年01月26日 01:04 by unicahier | ページのTOPへ

ひるますはどんな映画を観てきたのか?

このところ、映画の話題がまた周辺に飛び交うようになってきた。
我々の仕事の中にもしばらく途絶えていた映画DVDの仕事が再開されたということもあるのだろう。


そこで「ひるますはどんな〜」のシリーズとして、映画について覚書をかいておきたい。


まずは自分にとっての映画のはじまりというと、やはり怪獣映画。怪獣映画といっても、子供時代には即ゴジラ、というわけではなかった。ゴジラについてははじめて見たゴジラ映画が「怪獣総進撃」という東宝の怪獣が総出演するといういわば「色物」であったので、時代的にもゴジラとともに育ったという世代ではない。テレビやリバイバル上映などで、そこにいたる全作品はほぼ観ているが、ゴジラ映画の映画としての面白さを知るのはむしろ20代になってからのことだろう。子供時代には、ゴジラの登場しない東宝怪獣映画、つまり「キングコングの逆襲」だの「フランケンシュタインの怪獣・サンダ対ガイラ」や、大映の大魔神シリーズ、初期ガメラなどの暗〜い作品が好みであった。


だいたいにしてそういった作品は田舎の古い映画館で観たわけだが、その映画館自体が古い、汚い(トイレなど最悪)映画館で、二階席など木材で組んだだけのもので、なにやら見せ物小屋のような風情。というよりむしろそこは見世物小屋そのものだったのだろう。子供のころ、夜更けにその映画館につれていかれたら、なにやら芝居をやっていて、たいくつにそれを観ていたことも覚えている。


そんな暗い映画館でよく観たのは、もうひとつ、怪談映画がある。夏となれば「納涼怪談映画大会」というものが催され、かならず足を運んだものである。子供なので、どうやって観にいったのかはよく覚えていないが、学校で割引券などを配っていたのではないだろうか。怪談映画大会はその汚い映画館のほか、市民会館のような大ホールでも観たのを覚えている。これも上映作品はほとんど決まりきって、四谷怪談、累が渕、雪女というところで、後で中川信夫という巨匠の作品だということを知るが、当時はなんども飽きずによく観たものだ。実際は、四谷怪談というのには、ほとほど飽きてしまったが、どうしても他の怪談映画が観たくて、がまんしていたところもあった。とくに心をひかれるのは「累が渕」である。四谷怪談以上に大人のイヤらしい絡み合いが描かれ、しかも導入の座頭殺しと続きの因縁話が直接には関係しないので、子供にはストーリーがよくわからない。なにが祟ってそうなった、という原因、結果の説明がよく分からない。分からないから、それに引きつけられてしまう、というところがあるようだ。この累…の「なんだかよく分からないけど祟られた」という不条理を現代に昇華させたのが「呪怨」だといってもいいかもしれない。


ところでこの汚い映画館は「コトブキ座」といって、中学生頃になると、ほとんどボルノ映画館と化していた。田舎の街にはあと二つか三つ映画館があったように思うが、結局最後まで残ったのはそこだったわけだ。それはともかく、そういう暗い映画館にゆくと、映画のポスターがいろいろと貼っていて、まだ観ぬ作品をあれこれ空想して楽しむのだった。また映画館の入口のショーウインドウには必ず映画のスチールが貼られていたから、それにも興味をひかれ、観てもいない作品を観た気になったりしていたものだ。スチール写真にあった怪獣対決のシーンが実際に観た映画にはなく、見逃したのかと思って、親にダダをこねてまた観にいったりしたことがあった。何度観てもそのシーンをなく、だまされたと思って帰ったが、今となれば、それは映画の一シーンではなく、映画の宣伝用に撮られたスチール写真だったということがわかる。映画は夢・まぼろしのようななもの、というのはここからも印象づけられることである。


東宝の怪獣映画は「中劇」とかいって、そこよりはマシな映画館でやっていたが、それだけでもなにか東宝ってのは金持ちなんだな〜という印象があった。東映は「子供まんが祭り」などで印象が強く、金持ちではあるけど軽い、テレビの会社みたいなイメージであった。で、東宝の怪獣映画の併映として、クレージーキャッツや若大将を何本か観ていて、当時はまったく面白くなかったが、後々の映画の素養となったことは東宝さんに感謝すべきことである。ただクレージーについては本当にタイミングが悪く、物心ついてはじめて観た植木等の映画が「日本一の男の中の男」という最低の作品であった。この映画、これまでの無責任シリーズとまったく同じシチュエーションでありながら、一切ギャグではなく、マジでサラリーマン出世映画にしたという感じのもの。大人になって無責任シリーズはほぼ全作品を観たが、やはり最低作品と認識した。そんなものを子供のときに初めて見たのだから、植木=つまらない、ということが刷り込まれてしまった。世の中、クレージーではなくドリフになっていた時も時である。そんな印象が、植木との出会いを遅れさせてしまったことを非常に悔やんでいる。植木を、というよりは監督古沢憲吾の仕事として評価される一連の映画を集中してみたのは、それこそ自分が「マンガ描き」として何かをつくろうとしていた時代である。「平成大逆転男」というひるますの出世作(世に出た作品という意味)は、タイトルからして植木等なわけである。つまり自分の内的な感性にもっとも近いものがそこにはあったのだが(処女作にはその作家のすべてが投影されるという)、それをそういう風に表現していい、ということが、そういった映画を観るまで、自覚されずにいたというわけだ。もっと早くこの出会いがあれば、また違った形で自分の人生をつくっていたことだろうと、と思うわけである。


そんなころから映画というのはテレビのなんとかロードショーでみるものという感じがつよくなり、映画館の記憶というのはあまりなくなるが、テレビの映画でいまも記憶に残るのは、なんといっても「猿の惑星」で、そのラストの衝撃は忘れることができない。荻昌宏さんがやっていた月曜ロードショーだったと思うが、この中では、クリントイーストウッドではなく、ジュリアーノジェンマがやったマカロニウエスタンのいくつが印象深い。これもようするに暗いのだ。それとピーターカッシッグ主演のフランケンシュタインシリーズ。この何作目だか分からないが、いわゆる「フランケンシュタインの怪物」が登場せず、犯罪者として追われるフランケンシュタイン博士が、自分の脳を他人に移植しながら、生き続けているという話があって、それがずっと忘れられずにいた。そんなふうにフランケンの怪物が出ないフランケン映画、とか、ヒーローの変身しない回のヒーローもの、みたいな、欠如によって作品世界のリアリティが印象づけられるいわば傍系的な作品が私の好みのようだ。レンタルビデオが普及するのですら、そのずっと後のことになるのだが、ビデオ屋のホラーコーナーにいくとついついフランケンシュタインものを探してしまうのは、実は、その映画がないか、ずっと探しているのだ。そしてそれはいまだに見つけていない。


などと書きつつ、思い出したのは、その月曜ロードショーでやったエッチな映画。変態男が女を監禁して思いのままにしようという今ならよくある話だったが、その細部がいちいちイヤらしくて、子供ながらに興奮したのを覚えている。これはあとで、これと分かったのだが、なんと巨匠ウイリアム・ワイラーの「コレクター」という作品で、あのころにこんなエッチな作品がしかも巨匠の作品としてあったとは…!!、と驚いたものであった。
コレクターのあらすじは→http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/THE%20COLLECTOR.htm
(バスルームに手をしばって閉じ込めたり、終盤で突然女が裸になるなど、あまりに刺激的)


さて、ふただび映画館が身近になるのは、「どんな本を〜」でもふれた「日本沈没」以降である。藤岡弘と小林桂樹、いしだあゆみの出ていた映画。それがきっかけで、自分はまだ小学生だったが、友達と一緒に近所の汚い映画館ではない、大きな街の映画館に電車ででかけていくようになっていた。このあと「エクソシスト」の公開によるオカルト映画ブーム、ブルースリーのカンフーブームとパニック映画のブームが爆発的におこり、そんな映画を友達とつるんで観ていた時代であった。「燃えよドラゴン」、「ドラゴン怒りの鉄拳」といったところから、パニック映画の「エアポート75」、「タワーリングインフェルノ」、「大地震」、そして「ジョーズ」というふうに立て続けに公開されていくわけである。


そこまでくると、世界の映画史というものと自分の中の映画史というものが連結していく感じがする。ようするに公開映画を観にいくというのはそういうことなわけだ。「ジョーズ」から「未知との遭遇」、「スターウォーズ」というのは、それこそ一連の流れの中にあった。
そんなわけで高校時代になるのだが、「どんな本を〜」で高校時代に読んだ本の記憶があまりないのと同じように、この頃はあまり映画の記憶もない。


しかし、映像表現そのものへの興味は高まり、NHKディレクター佐々木昭一郎(「赤い花」「ユートピアノ」)やテレビ版「座頭市」シリーズ(79年)の前衛的な映像に心を動かされていたが、なんといっても田舎者であったので、本来の芸術的な映画作品そのものを知らず、映画技法についての本を読みふけって、自分なりの「映画理論」とでもいったものを作り上げていった時代であった。


そんな抑圧が大学時代には一気に解放され、ほとんど毎週のようにオールナイトを観にいく日々であった。この時代、映画の見方というと、古典的な名作と現代の作品、とくにB級娯楽作品を同時に観ていく、というものであった。これは「本」の場合も同様で、「カラマーゾフの兄弟」と「酔いどれ探偵街をゆく」を同時に読むというようなものである。とにかくひたすら読みたい・観たいということで、今まで知らないでいた欠如を早く埋めていきたいという欲望がそこにあった。それはこの時代が「映画が文化だった」ということである。つまり、黒澤・小津・溝口を知らずして日本映画について語ることはできず、ゴダール、フェリーニ、ジョンフォードを知らずして洋画について語ってはならない、というような文化的規律みたいなものがあったのである。文化とは何か?ということは、伊丹堂の会話で詳しく何度も語っているので、そちらを参照していただきたいが、ようするに、文化とはそのような「しばり」であると同時に、それを介して(のみ)自分を表現しうるような、ヨリドコロなのである。


我々が映画を観に行く、ということは端的にいって、そういう意味での文化的行為なのだった。これを観ずして映画は語れないという枠組みのなかにおいて、映画を観、語り、そして映画を観るということがそれ自体で「表現」であるような、そういうあり方として映画はあった。あった、という過去形で語るのは、現在、映画はそういうものではないからだ。映画はある時点で文化としては終わったのだが、そのことをここではっきりさせておきたい。では映画はどこで(文化として)終わったのか。文化としての純文学は村上春樹によって終わったと思うが、同様な立ち位置にいるのが北野武だろう。どちらも高い評価があるが、文学として、あるいは藝術として一辺の価値もないところが共通している。ようするにどちらも娯楽なのであるが、作家本人は藝術のつもりが半分以上本気であり、しかしたいして文学的藝術的スピリットを持ち合わせてもいないから、それが形だけのものとなるし、またそれを文化的に享受する人々(大衆)が、これまた藝術的伝統をよく知りもせず、そのありきたりな手法に惑わされて高く評価してしまうという、共犯構造がそこにはある。


もちろん彼らが文化を破壊した、などというのではない。ただ彼らは文化が終わったところに立っている、というだけのことである。文化を終わらせるのは、文化の内部にある作品であるわけがなく、それは様々な、人が映画を文化としてはとらえなくなったというような社会的な変化の中で終わっていったわけである。そこにはただ個々の作品を消費するということだけがある。文化としての映画が終わったあとでは、我々は「私はどういう映画を観てきたか?」とは言わず、「あ、その映画は観たことがある」というだけのことなのだ。単なる事実として。


またここでは芸術的な映画をひとつの例として語っているが、芸術映画が文化だ、という意味では決してない。娯楽作品といえども、娯楽作品としての文化的な配置の中で、娯楽的作品としての意味と深さというものがある。ハードボイルド映画にはハードボイルドの、ホラー映画にはホラー映画の歴史と文化というものがあり、そういった文脈の中にあるものが映画であり、逆にいえば映画とはそういものなのだった。というわけで、話がそれたように思われるかもしれないが、ようするに私が映画を観た時代というのはそんな時代であり、それが私の「文化修業時代」だった。いまや映画は「文化ではない」と、私は思っているが、しかし、このように映画について語る、ということは、やはり映画を文化として語っているという矛盾した状態にあるわけだ。それは私の中に染み付いた「映画は文化」が、やはり身体的なものとして定着してしまっているからだろう。そんな場所から、当時観た映画について語るということは、これは絶対に(文化として)はずしてはならない映画を紹介する、ということと同義になるだろう。つまり、


ゴダールの「気狂いピエロ」。
アラン・レネの「去年マリエンバートで」と「二十四時間の情事」。
フェリーニの「甘い生活」「8 1/2」。
テオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」。
そんなところが純粋藝術映画として。
娯楽作品なら、
ジョンフォードの「荒野の決闘(当時は「愛しのクレメンタイン」だった)
ヒッチコックの「裏窓」
コメディなら
マルクス兄弟の「我が輩はカモである」
ジャンル不明のルイス・ブニュエルの作品群。


こういった作品のどこが「絶対に観ておかなくてはならない」のだろうか。それはまずこれらの作品が本物だ、ということだ。これらの作品においてこそ、映画の本質を、その強烈なテンションと完成度ともに我々は知るのであり、あらゆるにせものをここから判断して切って捨てることができるのだ。映画という装置を手に入れれば、ある程度のにせものが簡単にできてしまう。それが複製藝術時代というものの本質なのだ。だからこそ、本物を知っておくことが大事というわけだ。そしてそこからは様々なにせもの・まがいものを愛す、という余裕の中での楽しみもまた生まれるのである。こういったことそのものがまさに「文化」というありようであることはすでにお気づきの通りである。例えばある本物をみながら、記憶はさまざまなバリエーションの映画とどこかで連鎖しあい、逆にくだらないB級作品を観つつも、そのどこかにまた全体としての映画とは何か?という背景の暗黙知が作動しているのである。


映画の修業時代からしばらく、10年ほどは、それでもまだ映画が文化であった時代は続いた。そんな時代にであった映画も多い。ヴィム・ベンダースなどはレンタルビデオや衛星放送で旧作をみたので、出会いが遅かったが、これもひとつの絶対に観ておかなくてはならない作品である「都会のアリス」「アメリカの友人」「パリ・テキサス」がありながら、すでに映画が文化としては終わったことを象徴するような「ベルリン天使の詩」(シリーズ)という作品もある。同じくそんな過渡を象徴するのが、タルコフスキーだろう。藝術映画の極地といっていい「鏡」があり、「ストーカー」「ノスタルジア」という傑作に至りながら、最後は「サクリファイス」という駄作を残して消えた。これもひとつ、映画の終りを感じた瞬間ではあった。タルコフスキーを観に行く、という行為自体が文化であったが、そのころから単館上映がオシャレなもの宣伝され始め(「ベルリン天使の詩」は単館上映ロングランの記録をつくったものだった)、それはただオシャレな男女のデートコースにすぎないものとなっていったのだった。ハリウッドでないローカルなヨーロッパの映画であれば、なんでもそういうところは上映したという感もある。そんなものが我々が取り憑かれるほどの文化になりうるハズもないが、けっきょくはそれは単なる反ハリウッドであり、結局はインドや東南アジアの映画がすごいというところに走っていくものなのだった。


そんな風に映画は終わっていったのだが、このところ、映画というのは面白くなっているようだ。それが「文化」なのかどうかは分からない。私も深くかかわっている名作映画DVD(名作映画コメンタリーを参照)も、ただ古くて安いというだけでなく、文化というものを再認識させる効果があるのだろう。この失われゆく10年、映画が終わってしまった後の10年に、私がただ一人、見続けているのはデビッド・リンチだけだが、その新作も発表されるらしい。と、いうこともあって、「ツインピークス」がブームになっているユニカイエなのであった。


2007年05月31日 16:08 by unicahier | ページのTOPへ

ひるますはどんな本を読んできたのか 3

ひるますの最新作「精神って何なんだ〜」が「カルチャーレビュー66号」に掲載されています。
こちらをご覧下さい。

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re66.html

ってわけでこの項、前回より続くのだが、中学の頃から松本清張の政治傾向の強い「日本の黒い霧」などを読んで、ちょっと「政治的少年」となっていった私。ようするにちょっと「マルクス主義的」に走っていったのだった。しかし、そこからマルクス主義「哲学」という方向に行ったのはまだよかったか。ようするに「哲学」という根本に接するそのきっかけにはなったということだ。


ふつうはそっちに行くと「主義」というところにとらわれて、ようするに宗教のようにそこから抜け出られなくなるようだが、たまたま時代は「マルクス主義」というより「実存主義」というようなもんであったし、哲学の方では、私が関心を持ち始めたころより少し後になるが、日本における「哲学の王」といっていい存在である「廣松渉」が、マルクス主義の中から登場して来たところでもあった。


高校のころは、なにか熱に取り付かれたように、ものを作ったり、書いたり、議論したりしていたという記憶があって、あまり本を読んだという記憶がない。手帖によく日記を書いていて、大学生になったら、読書三昧にふけようと「計画」していて、実際、結果としてはそうなったのだが、そんなことを書くほどに、高校というのは(受験のプレッシャーもあったのだろうが)本を読んでいないと思う。そんな中で、友達と「大江派か開高派か」というような話をした記憶がある。ようするにブンガクでいうと、大江健三郎か開高健か、という話。私は当時、圧倒的に開高派を主張していたが、なんとなく開高のシニカルというか、現実や自分を茶化してみるスタイルが好みだったのだ。今となっては、開高の作品なんてほとんど意味のあるものは残ってないが、大江健三郎も、大江健三郎として確立するのは、その後のレインツリーとか同時代ゲーム以降であろうかと思うので、まあいたし方ないかなというところだ。


大学時代の読書というのは多岐に渡るが、こんなことは当時の大学生としては、当り前のことなので、、書いてもしょうがないような話である。とくに私としては高校であまり本を読まなかった反動というか悔恨があって、ふつうの(周囲の)学生に比べて読書量が圧倒的に不足していると感じていたので、とにかく手当り次第に読んでいた。私のいった大学は僻地にあったので、ほとんど本以外に文化というものとの接触がなかったので、それはある意味ではいい環境なのであった。


またこの僻地の大学には、いまや世間学会で親しくさせていただいている佐藤直樹氏、またほとんど思想家といっていい存在だったT氏、哲学科の先輩であったM氏などとの出会いがあった。佐藤氏やT氏とは今思えば「全共闘」の名残のような文化的環境の中でいろいろと教えていただいた。テキストとして吉本隆明の本を読むことが多く、廣松などの本格派哲学に傾倒していた私には、吉本はあまりにブンガクすぎてついていけないところがあったが、それはともかく、そこでは徹底して自分のコトバで思想を語るということを教えられたと思う。ま、教えられたといっても、それがダイジということを徹底して自覚させられた、というのが実情で、それが自覚できたからといって、すぐに自分のコトバで思想が語れるわけでもなんでもない。アラユル技術は修練の賜物であって、自覚(意識)は関係ないといえば関係ないのだった。当時の思想にかなり近いのは、ひるますの臨場哲学ホームページにもバックナンバーとして「ひるますのショキロン(初期論文集)」というのがまだ残っているが、なんというか…橋本治のパクリみたいな文章で苦笑ものである。


橋本治というと「シンデレラボーイ、シンデレラガール」と「男の編み物手取り足取り」。これにつきるか。ずっと後になってから、「シンデレラ…」がカワデ文庫かなにかで出たので読んだら、ぜんぜん面白くなかったが、ほんとうにあの時代のあの自分にその本という絶妙なタイミングでこそ意味があった本というのだろうか。どこかに書いたことがあるが「ほとんど20歳にして隠居しようとしていた自分に生きよ、と言ってこの世にひっぱり出してくれた」のが、この本であった。


そんな風に強く影響を受けたわけだが、いま言ったように生きることの修練ができていない以上、すぐになにかができるわけでもない、…ってわけで、私の彷徨はまだまだ続くのだった。


その後はポストモダン、ってわけで、日本の思想界には浅田彰と中沢新一が登場し、華やかではあるがある意味どうでもいいおしゃべりという状況を迎えた。今にしてみれば、浅田彰の思想からはなにも生まれることがなく、中沢はオウムを生み出して自滅、余生はお茶を濁している。そんな中、私は栗本の「意味と生命」という本に出会った。この本こそ現在に至るまで私の哲学的思考の中核となるものとなっている。私にとってはもっとも重要な本である。その後、栗本は政治家となり脳梗塞でいったん世の中から去り、再び舞い戻って飛鳥文明と古代シリア文明がどうしたこうしたとか、なにやらわけのわからない話をしたり、小泉の暴露話をしたりしているのだが、そんなことはどうでもよく、ただこの本に書かれたコトだけが重要なのだ。


ちなみに栗本はまだ政治家になる前に、NHKのテレビ講座に出演し、坂口安吾についての講義を何回かに渡って語ったのだった。栗本は坂口安吾をもっとも尊敬する・ファンを自認する作家であると紹介し、しかし、今まで自分の本の中で安吾について語った事はほとんどない、なぜなら、一番好きなものは最後までとっておくからだ、と言っていた。ようするにそれが「最後」であり、それは栗本の遺言のようなものだったと今は思う。安吾を読み出したのも、それからだが、通常の安吾読みとしては遅い方だろう。ふつうは開高でなく安吾を読んでるはずだ(笑)。もうひとつ、栗本が安吾について語っていたことで、安吾なら自分の本、たとえば「パンツをはいたサル」などを、そっけなく「きわめて当り前のこと」といってのけるだろう、というのがある。自分の思想・哲学というものが、なにか人を驚かせたり、関心させるものではなく、きわめて当り前、と受け止められることこそ、ひとつの基準であるということを、その言葉から教えられた。


この「意味と生命」が、私にとって重要な本となったことは、たとえば「La Vue」の読書アンケート特集などにも書いたことだが、しかしこれまた振り返ればそういうことが言える、ということなのであって、そこに重大なヒントがあったからといって、それが原因となってなにか新しい自分の立場というものが作られるというものでもない。当時は、私は同時にユング心理学にも興味があり(それは今は易断というものにつながっている)かなりにオカルト的な精神世界的な考えもまたもっていたのである。世が世なら中沢になっていたかもしれないのである(笑)。


結果的には、オウムという大事件もあり、その後、精神医学関連の出版にかかわることになり、精神医学的な考え方の中から改めて、以前はたんなるポストモダンと見なしていたラカンを見直すというところに来ていた。そこに、なんと偶然にもラカン読みであり、同時にベイトソンの哲学を現代の生命哲学(オートポエーシス理論)とあわせ自分の思想を確立しようとしていた斎藤環が登場してくることになる。偶然の機縁があり、その彼と直接あうことも出来た私は、また彼とは違った道筋から、ラカンと栗本の統合…としての「オムレット」を書き始めることになるのであった。


これが偶然の符合というのは、じつは私の「月刊ひるます」というフリーペーバーマガジンの第一号がなんと「ベイトソン」についてのエッセイだったというのがある。そしてかの「意味と生命」の中で、栗本はベイトソンを批判しつつ、その根幹がじつはマイケル・ポランニーの思想にあることを暴いてみせていたのである。「ここはベイトソンがポランニーであったというところである」と、どこかで明確に語っているはずだ。斎藤環が「意味と生命」をよく読んでいたら、おそらく彼の最初の著書『文脈病』のサブタイは「ラカン・ベイトソン…」ではなく、「ラカン・ポランニー…」となっていたはずだが、もちろんそんなことは後で思うことなのだ。


そんなわけで、私は「オムレット」を書いた。その後、「オムレット」はあまり売れなかったので(笑)すんなり続編が作られることはなく、「伊丹堂のコトワリ」など対話シリーズを書いて現在に至っている。この間もさまざまな本との出会いがあったわけだが、それはこれまでのような出会いとはかなり意味合いが異なる。つまり、「オムレット」という一つの場所から、そこで出会われる様々な本が評価されるというような、あまり新鮮さのない出会いという感じといったらいいだろうか。


非常に不遜な言い方ではあるが、ある意味で、私にとって「本を読む」ということは終わってしまったことなのだろう。本を読むことが終わってしまったところから、また何か新しいことが始まる、いまはそんな階段の途中の踊り場にいるような、そんなところであろう。


2006年10月08日 03:32 by hirumas | ページのTOPへ

ひるますはどんな本を読んできたのか 2

さて、どんな本を読んで来たのか?を思い出すと、次々にいろいろと記憶がよみがり、小学生時代の江戸川乱歩やらハインラインなどの海外SFのことなども書かねばと思うが、キリがないので、そこらへんは飛ばして中学へいく。中学時代もいろいろと話はあるが、ここはひとつまとめて「古代史」と「民俗学」だろう。


ってことで、まっさきに思い出すのは、


「日本の妖怪」早川純夫 大陸書房


出た。大陸書房。いまも存在するのかど〜か知らないが、ムー大陸とか超能力、地球空洞説とかUFOの本ばっか?出してたとこだ。白い背表紙で統一した装丁が私は非常に気に入っていた。太古に宇宙人が飛来して文明をつくった系の話が非常に好きで、このシリーズはたくさん持っていたのだ…。が、その中でこの本は別格で、私にとっては、はじめての「本当の学問の本」って感じだった。つまり言っては大陸書房に悪いが、大陸書房らしくなく、うさんくささがまったくないのだ(笑)。


水木ファンから「日本の妖怪」という連想はストレートで、たぶんこの本は小学生のころに読んでいる。
今日であれば、妖怪についてのまじめな研究本は腐るほどあるが、それは京極夏彦と荒俣宏、そして学者としては小松和彦などのサポートもあって、妖怪についての思考は文化人類学であり、ひいては哲学であるというような考えが普通に受け入れられるようになったということだろう。
しかし、当時において、すでにこの本は妖怪を「文化」という観点からとらえていて、私にとっては衝撃であった。文化人類学も民俗学も知らないころのことである。この本が面白いのは、古代から江戸、近代にいたるまでの妖怪の変遷を、歴史の中での社会体制や人間のありようと関係づけながら、壮大な叙事詩のように語って行くという点だ。単に「民俗学」という学問的な立場からの記述ではなく、しかも、単純な怪奇本に流れない。忘れもしないのは、この著者が、この本の中で、人が「怪異」をどのようにとらえていくかという観点から、江戸時代について語っていたことだ。江戸時代というのは、ある意味、妖怪がたくさん作られたから「妖怪の全盛期」と捉えられがちだけれども、妖怪とは実は「怪異のパロディ」であり、「怪異という闇の消滅」でもある、というような捉え方をしていたのだが、これ、最近の京極が小説の中で語っている妖怪観に非常に近いのだ。京極さんも少年時代にこの本を読んでたんじゃなかろ〜か。


なかなかこの本はネットでひっかからないのだが、
太田書店という古本屋サイトで一冊800円なりで販売してました…。
http://www.books-ohta.com/list/7a.html
ちょっと安すぎるんじゃないでしょうか。


それが民俗学的な考えの出発点とすると、あとは非常に歯がゆくなってくる。中学では文化祭で、クラス総動員で「民話」のテーマパークみたいな催しを作って、非常にウケた記憶があるが、そのメインの出し物が民話の紙芝居だった。この脚本を書くために、はじめて柳田国男を読んだのだから、なんか順番が逆ではある。ここに至っても、まだ自分の住むところから遠野まで車で一時間ほどしかないということを知らないでいた私であった。


さて、それはさておき、もう一方の私の関心として、古代史というものがある。これもまた大陸書房の本にいろいろ触発されていたのだが(キリストは日本で死んだ、等の話…)、いまでも自分の思考の中心に残っていると思われるのが2冊ある。


ひとつは『銅鐸の謎』というやつでカッパブックスの本。
いまネットで調べてみると、大羽弘道という人の本で、この人はこの本の翌年に「邪馬台国は沈んだ」という本も出していて、これも俺は読んだ。小松左京の沈没ブームにのったかのような表題だが、なにげにネットで調べると邪馬台国=宇佐説で、推理作家の高木涁光や井沢元彦氏もこの説なんだそうだ。


それはさておき、銅鐸の謎、なにが面白いかというと、たぶん誰でも知ってるあの銅鐸に書かれた象形文字みたいな絵を「暗号」として解読するという意外性にまず驚き。それだけではなく、この絵文字?が、そもそも漢字が伝来する以前の日本の本来の「文字」だったのだと主張していた(くわしいことは忘れたが)。


しかしその暗号解読、いまだに忘れることができない。まずトンボの絵。これをトンボ=アキツ、すなわち秋津の国、大和地方だと場所を示す文字だとする(秋津、大和でググると神武天皇の故事により大和地方を秋津と呼んだという記述が見つかります)。そして有名なのが狩りをしている絵。これ、鹿を弓矢で討とうとしている絵。それをなんとこの人、射る鹿=イルカ=入鹿、すなわち蘇我入鹿と読んでしまうのだ!!! なんていうことでしょうか。銅鐸といったら、そういう歴史的な人物が登場するはるか以前の弥生時代のもの、とするのが普通であるところに、突然、蘇我氏ですからね。蘇我入鹿が暗殺された大化の改新が645年。キリスト教やローマ帝国の歴史なんかから考えると、すっごい最近という感じがする。それはともかく、銅鐸に蘇我氏が登場となると、それだけで違和感がある。が、この著者、さらに話が飛んで行き、つぎに描かれている穀倉らしきたてものを「タカミクラ」、すなわち「天皇」と読む。すなわち、これは秋津の国で、蘇我入鹿が天皇になった、ということを書いているのであって、それを国民?に知らしめるための立て札みたいなもんだというわけなのだ。びっくりですね〜。


蘇我氏が天皇、…それがどういう意味を持つのか。当時はよく分かっていなかったと思うが、その後、古代史を調べてみると、蘇我氏が天皇といわないまでも日本にいくつかあった「王朝」のうちの一つの「王家」であったことは間違いないようだ。はじめから天皇と豪族という分類があって、主従のような関係があったというより、日本がまだバラバラで、いくつかの共同体が接触し、争いながら集合していったところで一つの「くに」という形になっていったと考える方がうがってもいるだろう。いまウィキペディアで「大化の改新」を見ると、たしかに蘇我氏は九州王朝の王であった説もあることが書かれている。その後、いろいろと読んで行くと、出雲王朝という存在も浮かび上がって来て、いろいろと面白い。坂口安吾の「歴史探偵もの」などもその系譜につながっている。その辺語り出せばキリがないが、そんな関心をもった最初の一撃がこの本であった。


長くなってしまったが、もう一個、これも謎の書『いろは歌の謎』しかもカッパブックス。
これはネットにもいろいろと書き込みがあり、なんと著者篠原央憲氏が自ら「新版」なるものを出している(1986)。


さて、この本、内容を知ってる人もいると思うが、いろは歌は柿本人麻呂の作によるものであり、そこには暗号が埋め込まれているというもの。いろはにほへと…を七文字×七文字の正方形状にならべると、一番下の文字が「とかなくてしす」となる。とか=咎であり、要するに「無実の罪で死ぬ(殺される)」となる。柿本人麻呂が無実の罪により殺される前の獄中でこの「いろは歌」を作ったとするのがこの本。この説が有名なのは、さっきも名前の出た井沢元彦氏がデビュー作「猿丸幻視行」で、この暗号をそのまんま紹介してしまってるからだが、けっこうこの著者は井沢氏に不快感をもってるらしい。ちなみに「とかなくてしす」は江戸時代から実は広く知られていて、その証拠に歌舞伎(人形所瑠璃)の『仮名手本忠臣蔵』がある。仮名手本とは「いろは歌」のことで、赤穂浪士が四十七士であるのといろは四十七文字をかけあわせただけではなく、いろは歌に隠された「とがなくてしす」を赤穂浪士にもひっかけて幕府を批判しているのだといわれているそうな…。そういう古くからわかっていた「暗号」と柿本人麻呂を結びつけたところにこの本の新しい視点があるらしいのだが、こっちとしてはそもそも「とがなくてしす」なんて知らないから、その不気味な響きとともに、古代ロマンにひかれていったという次第。


ところで柿本人麻呂が罪人として処刑されたという説は、哲学者の梅原猛氏が『水底の歌』で主張している。かなり後になってその本を読んだ私は、これは子供のころ読んだ「いろは歌の謎」のパクリではないか〜?と思ったが、なんとこの「いろは歌の謎」は1976の出版で、梅原の『水底の歌』は1973年(新潮社)なので、これを書いた時点で梅原のセンセーショナルな説はこの著者も知るところだったということだろう。というか、この本で梅原説も触れているのだろうが、こっちは知らないので、気付かなかったのだろう。ちなみに井沢氏の「猿丸…」は、梅原氏が柿本人麻呂が罪人となったところで「人」という名前を剥奪されて「サル」にされてしまったという説(日本書紀に柿本サルという名が有る)をとなえているのに依っているのだろう。


そんなわけで、古代史への興味をかきたてられつつ、私は松本清張の古代史ものに惹かれて行くようになるのだが…その後、清張作品はほぼ全部読むほどにハマって行き、「日本の黒い霧」や「昭和史発掘」などから次第に「政治的」なものに目覚めて行く私なのであった。


2006年08月12日 04:03 by hirumas | ページのTOPへ

ひるますはどんな本を読んできたのか?

だいぷ間があいたが、いよいよ新装リニューアルひるますHOTLINEということで、新ネタを書いておきたい。今回は、ひるますの「ひるますはどんな本を読んできたのか?」だ。
ついでだから、アマゾンのアフェリエイトリンクも書き込んでいくかな(笑)。

そもそもこんな話を書こうと思ったのは、ユニの資料でマックス・ウェーバーの「職業としての学問」と「職業としての政治」を買ったのだが、この2冊の文庫本があまりに薄いので、KAOさんが「こんな薄い文庫本ってあるんだね〜」と言ったのだが、しかしだ、考えてみると、私の子供の頃はこんな薄〜い文庫本がたくさんあった。その中で思い出すのは、エドガー・アラン・ポーの「黒猫」の文庫版。これが5ミリ以下の薄さでたしか80円であった。それが印象深いのは、たぶん、俺が生まれて初めて自分で買った文庫本というものだからで、たぶん小学校の頃であった。

文学少年というか、読書、とくに探偵小説・SF小説の好きであった私は、小学校の図書館でこの手の本を読みふけっていたので、ポーのことも知っていたと思うのだが、それでも何か文庫本を買うというのは、大人びた行為のような気がして、非常にドキドキしたものだった。

この文庫本には「黒猫」と「黄金虫」が入っていたと思うが、一方はちょっとしたホラー、もう一つは暗号解読が興味をひかせる推理ものといってよく、たしかに俺の好きなモノの原点ではある。


さて、そんなわけで、この文庫以前からそんな推理・SFの世界にどっぷり漬かっていた私だが、やはりここで触れておかねばならないのは、それに遡る小学生のはじめのころに読んでいた水木しげるの「鬼太郎」ものであろう。これがかなり今の自分の精神の土台を形づくってるような気がする。ま、これについてはまた別に語った方がよいだろう。

そんなことを思い出してみると、当時よく読んでいた本に、ちょうど今映画でリバイバルしている「日本沈没」(小松左京作)を、なんども読んだものであった。あれって最後が「第一部終」となっていて、彼がほんとうに描きたいのは、日本が沈没した後の日本人の苦難なのだということをあとがきに書いていたのだが、なんと、やっといまになって(リメイク映画の効果なんだろうけど)第二部ってのが出ているのに驚きだ。

この第二部って、いつ書くのかな〜とずっと思いつづけてたのだが、ちょっと前に(まだやってるのかも知れないが)かわぐちかいじ氏が、地震で崩壊した後の日本人をテーマにしたマンガを描いていて、おや?と思ったものだ。まあまったく違う話ではあるのだろうけど、なんだかな〜という感じですよね。長くまたせて書かない小松左京も悪いんだが。

『日本沈没』自体、何度も読んだのだが、それ以降、かなり小松作品にはハマってました。お気に入りは『さらば幽霊』という短編集と、『果てしなき流れの果に』という長編。よくSF界では筒井派か小松派かという分類がありますが(星新一派もあるが、あれはSFじゃないよな)、私はまずは小松派としてスタートしましたね。

この長編なんかとくにそうだけど、哲学的テーマと情感たっぷりのストーリーテリングが、非常にロマンに惹かれていた子供の私にはとてもしっくりきたのでしょう。マンガを描きたいと思った最初期に「こんなマンガが描きたい」というひとつの理想が『果てしなき流れの果に』といってもいい。時間旅行をして「自分探し」をする主人公は、ある意味『オムレット』に通ずるものがあるかもってのはこじつけだが。

ってわけで、その後、ひるますはどんな本を読むことになるのかはまた次回。


2006年07月16日 05:04 by hirumas | ページのTOPへ

占い師・ひるますの巻

ひるますの気まぐれコーナーというふれこみのこの「ホットライン」だが、このところ、よ〜するにひるますの自己紹介コーナーと化している。 曰く漫画家だ、プロデューサーだ、哲学者だと。ついこのまえは別人ひるます、というのも紹介した。ま〜そこまでやればだいたい尽きただろうと思われるだろうが、 まだまだひるますには知られざる側面がある。それが今回のテーマ、占い、である。
 すでに「ひるますホームページ・臨場哲学」をご覧いただいた 方であれば、ひるますの「新・哲学占い」というコーナーがあるのに気づいているでしょう。ここは一応、有料で占いを行っているサイトであり、そ〜いう意味では私、 ひるますはプロの占い師なのであ〜る、と言えるわけだ。しかし、そもそもその「新・哲学占い」ってなんなんだ?


●それは「易」から始まった。

 というか、その臨場哲学ホームページをみてもらうと分かるが、新・哲学占いというのは、易なのである。
 で、私がいつから易をやっているかというと、これが古い。月刊ひるますというフリーペーパー(個人コピー雑誌?)に易のことを書いたのがなんと1992年だから 10年以上前のことなのだ。で、このときは「シンクロニシティ」の研究というテーマで書いていて、その中で例によって易にふれている (その後、ホームページに再録したので、ご参照ください)。 「例によって」というのは、シンクロニシティ(いわゆるひとつの偶然の一致)について語るときは、易について語るというのが、いわば定番であったからだ。 そんな定番なんて知らん、という人もいるだろうが、ユング心理学や、いわゆるスピリチュアル関係をかじっている人達の間では常識ということになる。
 そういう意味では、私も当時はかなり「スピリチュアル」な思想傾向のただ中にいたわけである。まだまだ哲学者ではない私であった(笑)。 92年といえば、オウム地下鉄サリン事件(95年)以前。心霊や超能力について語ることに、おおらかな時代であった。中沢新一のような学者か宗教家か分からないような 考えが普通に「思想」として受け止められていた。95年のオウムを契機にこういったスピリチュアルな領域にいた人々はそれぞれに自分の思想との対決を迫られたわけで、 それを乗り越えて、いま、われわれが思想を語っているというところがある。
 今年はそのオウムから10年、その風化が言われるが、実際問題として、そんな事件があったとなど忘れてしまったかのように、巷には心霊やらまやかしの霊視、 占いなどが氾濫し、テレビでもそういったキャラがもてはやされている。スピリチュアルな人々もまた何ごともなかったように、安直にそれを語っている。というか、 以前にも増して、ひたすらに「自分自身の癒し」というナルシスティックな方向に引きこもっているように見える。


●易の研究

 話が大幅にそれてしまったが、そういうわけで、オウム以後の思想的課題というものを一言でいえば、いかにして「宗教にならずに」生きる意味を語りうるか、 ということ。私的にそういったものを表現したのが、「肥留間氏の魔法の本」というマンガだった。あえて「易」とか「星占い」という際どい?テーマを選んで、スピリチュアルなだけ では終わらない、後の「オムレット」の基盤をつくったのであった。
 またこのときは、ちょうど佐野元春、下村誠などの音楽関係でのつながりから、鈴木貴士氏と同人誌「グレートアンバランス」を立ち上げたので、そこに連載。この雑誌はいわゆる 「3号雑誌」で、ほんとに3号で休刊になってしまったが、いま振り返ると、いろいろと意義ぶかいものなのであった。(ちなみにその鈴木氏はさいきん転職したそうで、 そのエピソードがまるで漫画かドラマのように面白い。→鈴木氏のホームページ参照)。


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ひるますが鈴木貴士さんと
作った同人誌「GU」第3号

 
 さて、易の話はその「グレートアンバランス」の第3号に掲載。易を神がかりなものではなくて、現実を読み解くための「見方」とでもいうようなものとして 示したのだ。
 これはたぶん今でも鈴木氏が在庫をもっているので、そちらにお問合せいただければ読めるが、その中心となる「現実=リアリティ」とは何か、ということは、ほぼそのまま 『オムレット』 の第4章に転用しているので、それをご覧いただくのもいいかもしれない。『オムレット』第4章というと、まさに『オムレット』の中核ともいえる部分だが、 そこに転用されるということだけでも、この「易」のマンガが生半可なものではないということが分かろうというものか?
 またここでは簡単に「易」をやる方法も解説した。
 簡易型の易占いというのは、コイン3枚をつかってそれを降り投げ、表裏の数によって易の「卦」を読むというもの。実は私の易も筮竹ではなくて、このコインを使ったもの。 あとは易の「卦」を読むためにその解説本として朝日文庫版の「易」上下2巻が必要。


●易の修業時代

 この「グレートアンバランス」が95年から96年にかけて発行されて、ほぼ同時に私は「ひるますホームページ」も開始。96年からはじまった「老舗」ホームページなので、当時のホームページ紹介単行本などにも紹介されたりした(「インターオタクネット」なんていう失礼なタイトルの本だったな…、あと「インターネットイエローページ」の何号だったかでは、筒井康隆サイトの隣に掲載されて、意味もなくにんまりとしたりた、笑)。それとヤフ−にも早くから登録されていたので、いまだに「ヤフーはソフトバンクのものではなく、オレのもの」という感覚がある(爆)。
 閑話休題、その初期ホームページでは、日記的なエッセイ、書評などを書いていたが、メールでの易占いも告知して、これをかなりこなしていた(というか、ヤフーも最初は「占いサイト」として登録されていた)。トータルではだいたい百件程度だろうか。これは完全に無料でおこない、私自身の易の勉強にさせてもらった。
 易の占い自体は非常に簡単なのだが、その「答え」となるものを「易」の本の中から読み取るには、それなりの直感というか、熟練というものが必要になると思う。ようするに「易」の本に書いてあることというのは、きわめて抽象的というか、暗示的である。それをいかにして「現実」と結び付けて読み解くかというのが、その熟練の必要なところだ。と、いうと、なにか抽象的な文言に対して、勝手な解釈をほどこすのが易だという印象を与えるかもしれない。たとえばノストラダムスの大予言のように。しかし、ここでは逆にそういう風に勝手な解釈にならないようにこそ、そのような修業が必要なのだといっておこう。実際、占いは言いっぱなしではなく、その反響というものに常にさらされていて、そこがまた修業になるというわけなのだ。
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●新・哲学占いの誕生

 そのメールによる易占いもかなりそれに時間をとられるようになってしまい、しばし休業宣言。『オムレット』刊行後、伊丹堂の対話シリーズを書きつつ、再開となった。このときから、単なる「易」ではなく、独自の「新・哲学占い」というネーミングにした。上の伊丹堂のイラストで手のひらに「理=コトワリ」という文字が書いているのが象徴的だが、易をことさらに「吉凶」という神がかりなものとして妄信せず、あくまで現実の中の「ことわり」を読み解くという方向で使おう、というのがその主旨ともいえる。これについては、伊丹堂と獏迦瀬の対話として「新・哲学占いってなんなんだ〜」というのを書いているので、そちらもご参照いただきたい。そこにも書いているように、本来の易というのは、そういうもんなのだが、基本的には昔のものなので、いろいろと宗教的というか迷信的な部分にまみれてしまっているので、それと違いを明確にしようということである。
  実際、ここでの占いは継続しているので(現在は有料、ただし結果を公開する場合は無料)、興味のある方はお試しいただきたい。なお上の伊丹堂の対話のページに占いについての簡単なルールを記載しているので、それを一読ください。


●付録・易の卦について

 易は、陰陽を現わす爻(こう、つまり−か--の棒ですね)の組合せで出来た卦(け)のイメージを読み解くもの。この卦がいわゆる八卦というように八種類あるのだ。この八卦が上下二つに重ねられたものが易で読む「卦」で、8×8で64種類となる。ここでは基本となる八卦を紹介。易の判断を説明する際には、この八卦によって解説するので、下の図を参照していただくと幸いである。

天のイメージ
剛、積極性をあらわす

雷のイメージ
「動き」をあらわす

火(太陽)のイメージ
「付く」性質

沢のイメージ
「よろこび」をあらわす

地のイメージ
順、柔、受動性

山のイメージ
停止をあらわす

水のイメージ
困難に陥ること

風(木)のイメージ
「入る」こと


2005年04月25日 16:02 by hirumas | ページのTOPへ

ひるますは如何にして哲学者となったか?の巻

 そう思っている人はほとんどいないのが難点だが、わたくし、ひるますは、前回紹介した『オムレット』の著者であることからも明らかなように、実は「哲学者」なのであ〜る。だからなんだということではないのだが、今回はこれをネタに、ちと書いておきたい。
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 まずそもそも哲学者とはなんなのか?、人は大学の哲学教授やいわゆる思想・評論家を哲学者と思うようだが、これは「哲学者」ではない。これを言う人はけっこういて、哲学という学問をやっている学者を「哲学学者」などとバカにしていうのは、以前からあることだ。バカにして、というが、そういう「職」を得るのはナカナカに大変なことで、哲学の周辺にたゆたう者たちにとっては憧れのマトではあろう。また、文化の伝承という側面からも、自分で哲学する人ではなく、哲学について勉強する人、という一群の存在は不可欠ともいえる。
 これになるには、外国語(英独仏)はもちろん、ギリシャ・ラテンの古典語にも通じてなくてはならないので、たいへんなのである。ついでに言えば、大学の哲学科はそういう哲学教師を養成するところであって、自分で哲学する、ための場所ではないのだが、そんな当たり前のことに入ってみて気付いたバカ者のひとりが私である。しかし、とすれば、どこにいようと、自分で哲学するということはできるわけで、ただそれをするかどうか、という問題になる。はい、それまでよ、と。しかし、ほんとの問題はそっから先にある。


●哲学は病気なのか?

 つまり、では自分で自分なりに哲学してりゃ「哲学者」なのか?ということだ。これも哲学学上は、いろいろと議論があるのだろうが、わかりやすいところでいうと、数年前に「哲学は病気なのか」論争というものがあった。これは私の嫌いな(笑)中島義道氏の言い出したことなのだが、ようするに「自分はなぜいるのか?」などいわゆる哲学的ギモンを考えることを「病」として、それに取り付かれた自分(中島氏)を自虐的に語ったもの。ようするにエッセイなのであって、まともに「議論」することではないのだが、当時の私の掲示板などではけっこうやりとりがあった。私の中島批判(「臨場哲学25号」参照)に噛みついてくる中島ファンというのが多かったのだ。哲学が病気であってもかまわないのだが、哲学が病気というこの言い方だと、別に哲学の「内容」はどうでもかまわなくて、単にそういうことを考えたり、そういう疑問にとりつかれることが「哲学」だということになってしまう。ようするに内容ではなく、「態度」とか「嗜好」の問題となるわけだ。
 奇妙なことに、中島氏自身、かつての著書で「日本にはほんとうの哲学者はいない、哲学学者ばかりなり」という議論を展開していたのだが、もしそういう態度や嗜好をもった「だけ」の人が哲学者(中島的には「哲学病者」だが)であれば、ほんとうの哲学者の方がずいぶんと安易なものに感じられる。


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中島義道『生きにくい…(私は哲学病)』角川書店


●哲学の普遍性とは何か?

 まあそれも定義(というか名義)の問題だからどうでもいいといえば、どうでもいいのだが、私がいいたいのは、「哲学者」というのであれば、それは単に哲学が好きとか(そういえば肩書きに「哲学愛好家」と名乗ってる人もいたな、笑)、どうしても哲学的な疑問にとりつかれてしまうというのではなく、なんらかの哲学的「内容」を語りうるということでしょう、ということだ。ようするに内容で勝負じゃないのかと。だいたいここでいうことでもないだろうが、一連の中島氏の著作をみても、哲学的な「内容」というものはほぼ皆無に等しい(その後の中島氏の行く末についてはこちら(愛って何なんだ〜?)に書いたので参照)。中島氏と池田晶子、それから土屋賢二の三人を哲学エッセイスト御三家というらしいが、この中で哲学的な「内容」そのもので書いているのは池田晶子さんだけ(その内容はいささか宗教的なものがあり、私としては批判的なのだが…)
 ここで私がいう「内容」とは、わかりやすくいえば、哲学史にのっている誰々の哲学説に類するものだろう。これもまたひとつ問題のある言い方で、哲学はそういういろんな「説」があるから「科学」ではない、なんていわれ方をする。しかし科学というものが絶対ではないということが最近ではようやく浸透してきたし、その科学の根拠を考えるのも哲学である以上、科学ではない、ということは、だから何?ということになるだろう。ようするに科学かどうか、ではなくて、そういったそれぞれの哲学説の「普遍性」が問題だということだ。普遍性というのはどれだけ「納得しうるか」ということであり、その意味では哲学史は「美術史」に近いともいえる。哲学説はさまざまだが、哲学者それぞれの観点から、納得しうるというか、貴重な発見的といえる知恵が語られているわけである。普遍性問題についてはこちら(美って何なんだ〜?)に書いたので参照いただきたい。
 ようするにこれも、哲学やってりゃ(哲学的な考えにとらわれていれば)哲学者なのか?というのとまったく同様、哲学史に(教科書に)載ってりゃ、普遍的なのか?という問題になる。哲学史の場合はそこが微妙で、たとえばある学説を紹介するために同時代の先行する思想を紹介する必要がでたりする。そのためだけに後世に名を残した「哲学者」も多々ある。サリエリみたいなもんであるが、これもまた必要な存在なのだ。そういう意味では哲学史にのってるからといって普遍的であるとは限らない。また普遍性というのは先にあげた参照の私の伊丹堂の対談でも書いているように「絶対」の基準ではないから、ある人にとっては納得できないものであったりもする。肝心なことは、哲学というジャンルそのものが普遍的なものだというのではなくて、個々の哲学説、というか思考の結果に、普遍的なものもあればそうでないものもある、ということだ。これは「美術」について、美術というジャンルが普遍的なものではなく、普遍性をもつような優れた美術もあればそうでないクズ作品もある、ということを考えれば納得がいくだろう。
 それが私が、哲学という態度ではなく、その「内容」にこだわる理由でもある。ようするに考えたことの結果が問題である。別に中島さんが生きにくいかどうかに興味はないのだ。


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池田晶子『14歳からの哲学』トランスビュー


●すべては後からついてくる

 というわけで最初の話にもどると、『オムレット』は、これ、ことごとく「哲学的な内容」そのものなので、私は「結果としての」哲学者であ〜る、といっているわけなのだ。実際、私はその中島氏についての書評を書いていた時点で、自分は中島氏のいう意味での哲学的な生き方はできないというようなことを書いていた。またそういう意味では哲学者ではないと感じていたので、自分も「哲学」をしている自覚はなかった。というよりなにより、『オムレット』が発売時に(それは制作過程でのある事情によるのでもあったが)「心理学」というジャンルの分類コードをつけられたことに違和感もなかったし、というより自分から「心理学でしょ」などといっていたのだ(笑)。
 そしてその後、「伊丹堂シリーズ」の書いていく中で、世の思想家・哲学者などの考えに論評を加えたりしていくうちに、自分で書いた『オムレット』が、内容的にもそれら世の思想家・哲学者などの書いたものより遙かに深く哲学的「内容」を持っていることに気づいてしまったのだった(笑)。ホームページのタイトルを「臨場哲学」としたのも実はその後のことで、それまではむか〜し使っていたフリーぺーバーのタイトル「月刊ひるます」のままだったのだ。
 そんなわけで、私は「後になって」哲学者であることに気づいた。しかし考えてみれば、そういうことは当たり前のことでもある。オムレットの中にも「自分は後からついてくる」という名文句?があるが、すべて創造的なコトガラというものは、あとからそれとわかるものなのである。哲学史にのろうと思って哲学をやるという人がいてもかまわないが(美術史にのろうとがんばる絵描きがいるのと同じ意味で)、そのために本来の普遍的な思考がねじまがってしまっては、本末転倒というものだろう。ちなみに下に画像をのせた竹田青嗣氏の提唱する「欲望の現象学」というのが、そのにおいが非常に強い。別に「現象学」を再評価して、自分はそれでものを考えているというだけでいいところに「欲望の〜」という冠をつけて、なにがなんでも自分の独自性?を出したいようなのだ。なにがなんでも欲望でなくていいだろうといったら、竹田氏の弟子とかいう人に噛みつかれたので、なんなんだ?と思ったことがある。
 話がそれたが、そんなわけで「哲学者ひるます」について考えてみた。その哲学的な内容のイカンに関しては、『オムレット』と、その後の「La VUe」や「カルチャーレビュー」掲載の伊丹堂シリーズをご覧いただきたい。しかし「La Vue」の(「倫理って何なんだ〜」と「正義って何なんだ〜」)は現在、手軽に読める状況にないのでなんとかしたいものだな…。


追記:その後、ひるますの哲学シリーズ(臨場哲学)は電子書籍として、ユニカフェにて配布しております。(http://www.unicahier.com/cafe/index.html


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竹田青嗣『現象学は思考の原理である』ちくま新書


2005年03月05日 03:25 by hirumas | ページのTOPへ

オムレット誤植?大暴露大会の巻

うあああ〜って感じで、お待たせしました(なんじゃそれ…)。
 いよいよあの『オムレット』の誤植暴露大会です。このところ「2」に向けて編集長として燃えているKAOさんが「1」を精読し、次々に誤植を発見。誤植というよりDTP上のエラー、見落とし、ちょんぼの類いから、あきらかに絵としておかしいものなど、さまざまです。
  ふだん「難しい」とか「分かりにくい」とかそういう読後感想はよく聞くのですが、こ〜いった本としての基本的な部分をまとめて吟味したのは今回がはじめてのことではないでしょうか。と、いうわけでこれを機会にKAOさんのほか、読者のみなさまにも応募いただいた誤植(などもろもろ)をご紹介いたしましょう。
 なお、オムレットについては以前のユニ通信Vol.6でも紹介しておりますので、そちらもあわせてご覧ください。


●伊丹堂ののどちんこが…
発見者:諸根さんのお嬢さん


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これが元祖?発行直後、諸根氏のお嬢さんが発見しました。よくみると伊丹堂の「のどちんこ」が逆さになってます。ふつうはぶら下がっているものですよね(笑)。このときは速攻で修正したものをプリントして諸根家に送ったものでした。


●へー
発見者:KAO & さしち

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条件という描き文字に重なって「へー」というフォントが見えてます。完全に消し忘れ。それにしてもこの近辺に「へー」と入りそうなとこもなく、なんでここにあるのか、謎です。


●湯呑み
発見者:さしち


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前のページでは白かった湯呑みがこのページではグレーに…。トーンを切抜くのを忘れたんですな(笑)。
ちなみに「トーン」とは言っても、この作品、じつは完全デジタルですので、フォトショでトーン(パワートーン)をかけてます。伊丹堂が「星の王子様」について語るシーン。


●実ハ
発見者:┣!я♂┫さん


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これは誤植ではないのですが、69ersの┣!я♂┫さんが指摘しました。なぜか実ハのハがカタカナ、と。これは実は、わざとやっていて、歌舞伎の役名紹介で、なにがし実ハ○○、という言い方が好きで…、それだけだったのですが、なぜか校正で誰もチェックしなかった(笑)。


●それはどうかなぁ〜
発見者:KAO


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微妙ですけど、吹き出しがノンブルにかかってます…。このセリフが肥留間氏登場の第一声なのですね。それを思うと感慨深いミスではあります(なんのこっちゃ)。


●AよりBがイイ
発見者:KAO


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の、「よ」の字、なんか足りません…。
珠緒が主役の第3章です。


●スマーーーッシュ!
発見者:KAO


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といいつつ、なぜか画面に「ボレー」の文字が残ってます。そう、最初はボレーの絵だっのですね(笑)。
スポーツをネタに、体と脳、心の関係を考える第2章です。


●セリフのない吹き出し
発見者:KAO


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ここの他、多数、頻発しております…。なんでこんなに多いのかと思うのだが、あとで手書きで「え」とか「ああ」とか入れようと思ってたのをつい忘れてしまったのだ。ま、雰囲気で意味は通じると思いますけと〜。


●居酒屋「つぼ組」
発見者:KAO


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のシーン、アヤコとバカセが並んで座ってたはずなのに、いつのまにか対角線に向かい合ったり配置がめちゃくちゃ。ちなみにこのコマのオムレットはとさかの「ケチャップ」がないですね〜。


●セリフのはみ出し
発見者:ひるます

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ここだけではないが、ここはちょっと極端にはみ出しすぎてますよね。クオークのテキストボックスでのせてるのだが、クオークって画像が非常にみにくいので、ついつい細かいとこがズレてしまうのだった。


●回想シーン
発見者:KAO


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東欧の留学先の街のカフェのシーン。スキャンではわかりにくいのですが、肥留間氏の腕とかに変にトーンがかぶっていて変です。
ちなみにこの回想と珠緒、坂口兄妹のエピソードは「なんでこんなエピソードが入ってるの?」と評判悪かったです。まあたしかに唐突ではあるんですが…、「2」ですべてが明らかになる、ことでしょう?


●お気に入り
 ひるます


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ここは誤植ではないのだが、私のいちばん好きなコマなので、ついでに紹介。あらゆる本には作者の思ってもいなかったメッセージがこめられている、いいかえると、読者の方がかしこくて、たいした本でもないものから、大切ななにかを読みとつてしまったりする。ここで紹介した誤植にも作者の意図しなかったなにがしかの意味があるのかも?、といえば牽強付会だが、あらためて考えてみると、たいした本でもない「オムレット」を読みながら、作者としての私が考えもしなかったような思想を、読者としての私が読み取りながら、ここまでの成長があったという気もしてくる。それをまた「オムレット2」として形にできれば、幸いであります。


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2005年02月05日 03:28 by hirumas | ページのTOPへ

別人ひるますの巻

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これが「別ひ」マーク

 インタビューや雑談をお届けするひるますの気まぐれコーナー。ということにかこつけて、これまでひるますのマンガ作品の紹介、オムレットの詳細紹介、伊丹堂の対談紹介などと自己宣伝に利用させていただいております(笑)。というわけで、今回も自己紹介ネタで…まだあるんかい、という感じですが、実はこのところ更新してないのですが、「別冊ひるます」(略して「別ひ」)というエンタティンメントのサイトがありまして、密かに愛着をもっております。まだご存じないかたは、ぜひご覧いただきたいもんです。 このサイト、名前からして「別マ」のもじりなのですが、雑誌的にいろいろなコーナーの寄せ集めでなりたっております。ま、ほとんどがその場の思い付きで、長続きしないのが難ですが…、個人的には絶妙なそのコーナーごとのネーミングが気に入ってます。


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「池袋イーストゲート日記」


 まずは「池袋イーストゲート日記」。これはブログでも継続していたので、ご存じの方もおるやにしれません。というか、とある人形作家の先生からご覧いただいたというお知らせをいただき狂喜した憶えがあります(笑)。これもいいネーミングだと思うのですが、あれだけ「ウエストゲートパーク」がヒットしていながら、「池袋イーストゲート」を標榜するサイトがまったくない(当時調べ)のには驚きました。ま、中身はくだらない池袋近辺の日記だったりします。このところ書いてませんが、ユニのサイトとしてぜひ復活させたいと思っております。なんといっても、我々ユニ、この近辺のとくに食事関係では「言いたい!」が山積・うっ積しておりますゆえ。

 そして「ひるますの 妄草書房」。これは私が思い付いた本の企画、というか冗談で考えたギャグとしての企画を、あたかも本当の出版社の書籍リストのごとくに書いたものなのですが、やはり傑作だったのは、これを見て本当に書店で探してしまったという方からのメールをいただいたことでしょう! その本当に探された本というのは「恐怖のホラー映画!着メロ全集」。いまなら「呪怨」のうめき声付きとするとこですね(笑)。その他、ほとんど本当にあってもおかしくない「白髪インテリおばさん図鑑」「声に出して読みたいソガヒトミ」など名企画がそろってます。実行したい出版社の方は私に企画料をお支払いください。ちなみにこういう偽出版本リストは昔からいろいろとあるのですが、坂本龍一の「本々堂出版リスト」が記憶に残ってますね〜。


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 次は「ワシもヒットで考えた」。これはヒット曲にあれこれ言いたいというコーナーで、ミスチルが嫌いという例の話もここから来ております(笑)。いまでもやったら面白いサイトですね〜。これについてはやはりネーミングが秀逸!という感じ。元ネタはみなさんビンと来ると思いますが、週刊文春に連載の近田春夫さんの「考えるヒット」、なのですが、「ワシも〜考えた」というのは椎名誠の「ワシもインドで考えた」で、その合成。ところがよくよく考えてみると、「考えるヒット」というのは「考える人」のパクり(パロディ)。そして椎名の「ワシも〜」は、堀田善衞氏の「インドで考えたこと」のそれです。と、考えると、この「ワシもヒットで考えた」というタイトルの深さがしみじみと伝わってくるものです。。。?

 「私のこころは蕎麦処」。これもタイトルがいいね〜。蕎麦の話がほちぼちと載ってます。ユニでお馴染みのさかいさんも登場! あのころ行こうといってた国分寺の蕎麦屋にはまだ行ってないなぁ。
 「ひるますの邪の道はフェチ」。これは面白い(笑)。いまや超ブレイクしてしまった柴崎コウのポンズダブルホワイトの話がのってるのがなんとも時代を感じさせますね〜。


 「ひるますの思ひ出工房」。ひるますが「思い出」の品を紹介するコーナー。これは個人的にはひじょ〜に好きなのですが、その思い出のシナというのが、あまりにも特殊なものすぎるのか?共有してくれる人がいなくて、ぜんぜん盛り上がりませんでした。いまなら「時事放談のテーマ曲」とか「ぴゅんぴゅん丸のテーマ曲」で盛り上がりたいところです。


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だれかこのラーメンを知らんか?!


 「広告解体屋」。テレビCMについての文句を書き連ねたもの。タイトルはいまいちですね、ストレートすぎ(笑)。これはかなり書いたのですが、いまやテレビを見る機会がなく、復活はないでしょ〜ね。 
「深夜映画の友」。テレビといえば、これも深夜テレビをつけながらでないと仕事(マンガ等)ができなかったころのコーナー。深夜テレビの映画をなにげにみつつ書いたものです。しかし最近は「呪怨」コーナーとして復活しつつあります。。。
 「クラシック映画かく語りき」。映画といえば、こちらで仕事がらみもある名作シネマを紹介しようと思ったのですが、ごあいさつで挫折。ただし、以前のこのホットラインでクラシック映画の紹介をしました。これは実は「名作映画専門サイト」としてリニューアルの予定!お楽しみに〜。
 そして「でぃーぷひるます」。これはタイトルどおり深いです。ネタバレ批評を掲載しております。おすすめはデビッドリンチの解読批評、そのリンチやバイオハザード、呪怨などのリメイキング批評。リメイキング批評というのはオレの創造したジャンル?で、作品に文句をいうのではなく、率先して「対案」を提示しようというもの。いぜん「プロデュース魂」の巻でも紹介いたしました。
 その他、いろいろと小粒のコーナーもあるこの「別ひ」、ぜひご覧いただければ幸いです。


2005年01月05日 03:36 by hirumas | ページのTOPへ

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